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記事: 私の築地自転

私の築地自転

私の築地自転

レザージャケットの専門メーカーカドヤ
皆さん こんにちは、原田です。
今回は「革ジャン」から大分はなれてしまいますが
私の愛機、自転車についてのお話をさせて頂きたいと思います。
普段、会社通勤の主軸となるオートバイに代わって
地元近所の移動(買い物)に大活躍してくれているこの自転車は
現在は消滅してしまった [関根自転車] という会社で製造された運搬車です。
レザージャケットの専門メーカーカドヤ
私は生まれも育ちも神奈川県川崎市ですが
両親の実家がそれぞれ東京都中央区の月島と佃島であったため
幼少期はよく車に乗せられながら築地市場の前を通り過ぎ
早朝競り落とした新鮮な魚や野菜を
このような黒くてゴツイ自転車(築地自転車)の網かごに積んで
活気に満ち溢れた晴海通りを
ネジリ鉢巻に長靴姿で行き交う [働くおじさんたち] の姿を見て育ち
その光景がずっと脳裏に焼きついておりました。
月日は流れ
あの頃に似た、「ハッ」と目の覚める光景との嬉しい再会が訪れました。
下町、浅草カドヤに入社したころです。
築地近辺の使用目的とは違うのでしょうが
あの自転車が浅草の街のあちこちに駐車してあるではありませんか!
今からもう14~15年前のことになりますが
入社した頃は昼休みになるとあの築地自転車を発掘しに
酒屋店や精米店を片っ端からうろついて探し
見つけては店主が手放そうとしていないか交渉したり
どのメーカーの運搬車がカッコいいかチェックして歩くのが習慣になっておりました。
頑張って探し歩いた甲斐があって
偶然にもタイプの異なる3台の [関根自転車] を手に入れることができたわけですが
取り分け印象に残ることになったのが、この自転車です。
これは現役使用中のオーナーから譲り受けたものではなく
カドヤ本社から歩いて1~2分の自転車屋さんの奥~の方に置いてあり
ものすごく安値で中古販売されていたもの。
「お兄さん、珍しいね、、こういう自転車興味あるのかい?」と店のおじさんも少し嬉しそうで。
1台目、2台目と各オーナーとの交渉に何度も何度も足を運び
粘りにネバッて苦労して譲って頂いた経緯があったので
昼休みの弁当を買いに行く途中の自転車屋さんで発見した時は
目からウロコ、ぽろり、昼飯どころではありません。
楽しそうにこの運搬車の説明をしてくれている店主の気が変わらない内に
即決、即買い、即お持ち帰り、、ひひひひっ~!
という思い出が。
レザージャケットの専門メーカーカドヤ
ロッドブレーキハンドル
中央左右のバネが風雨にさらされないようにハウジング鋳造されているものもあるようです。
現代の自転車の殆どはケーブル構造のブレーキですが
ロッドブレーキの良い所は切れたり伸びたりする心配がないことです。
また、実際に使用してみて解ったことですが
近所の買い物とは言え、米袋や清涼飲料水のボトルはかなり重く
手首に掛けて走るには痛すぎますが
ハンドルの左右に均等に掛けることでむしろ、ハンドリングが心なしか安定し
ワイヤーブレーキならワイヤーが荷物で折れ曲がり前後のブレーキが効いてしまいますが
鉄の丸棒ブレーキは全くブレーキ操作に影響なく感心しました。
ハンドルは当時、砂利道など悪路でリヤカーや重い荷物を運んでいたので
安定してコントロールできる様、力が入るフラットなもの。
フレームも安定感を保つためホイールベースが長く車高は低め
頭や肩が左右に自由に回り手の平、手首、腕に負担が掛からないよう
工夫された設計になっているそうです。
背を伸ばして椅子に座っているような姿勢となります。
補助フォークは重運搬車、軽運搬車の特徴的な重要パーツ。
軽量、速さ、カッコよさよりも
丈夫で実用性が高く、ローメンテナンス
乗り心地などにおける高い水準の信頼性が求められていたそうで
鉄製で重いが丈夫な自転車は鉄馬として酷使され
長く使用できるよう自転車工具にはフレーム、フォーク
チェーンケース、ハンドル、リム、クランクアーム、ペダルなどを元に戻す
[曲がり直しの工具]が多かったそうです。
レザージャケットの専門メーカーカドヤ
デザインが派手なものがなく、色は黒が多かったのは
「鉄の馬」や「ロバ」の役割を果たしていたからだそうです。
昭和20年~30年代は、国産の軽快車、実用車、運搬車の黄金時代。
当時公務員の初任給の2ヶ月分相当の価格でとても貴重な存在であり
庶民の手に入る唯一の交通手段で、現代の自動車ほどの価値があったそうです。
第二次世界大戦中の統制経済下にあった軍需資材工場が
戦後、自由経済の平和産業の工場に変わり
JIS が自転車工業に普及されるまでの間
自動化製造より職人の手造りが圧倒的に多く
フレームの低温溶接、ハンドル溶接、メッキ、革製サドル
バッジの七宝加工、風切りの彩色、各パーツの組み立てなど
日本の職人が心を込めて、謹んで 「 もの 」 を製造し
ネジ一つにまで各メーカーの刻印が彫られているほど
誇りをもって、高い需要と競争の中で実用車の黄金時代を築いたそうです。
私の愛機、[関根自転車]も
他メーカーの運搬車同様、戦後日本の復興時の原動力として庶民を支え
1950~1955年に最も多く生産されたそうです。
私がこの自転車を所有するようになった理由は
上記のような時代背景や生産背景などは全く知らず、、
ただただ、ゴツくてカッコよくて思い出の自転車、、、という表面的な物欲でしかなかったのですが
今回あらためて昭和自転車のことを調べる中で
使用する人のことを細やかに考え
使用目的をしっかりと見据えて
丁寧に [ ものづくり ] に携わっていた方々の姿が
目に浮かんでまいりました。
日本は、戦後の復興を経て高度成長期を迎える頃には
一般家庭に自動車も普及し出し
東京オリンピックや大阪万博の開催に先駆けて
高速道路や新幹線など大規模な都市計画と共に
インフラ整備によって国民の移動範囲が広がり
移動手段も大きく変化していきました。
人力による運搬を目的とした
鉄の塊の自転車の需要もまた急激になくなり
名車を生み出した数多くの実用自転車メーカーが
日本国民にとって喜ばしい経済発展と共に姿を消すことになりました。
荒波のような昭和 という時代の中で
復興、繁栄、衰退、全てを経てもまだまだ現役続行の
我が愛機 [ 関根自転車 ] を眺めていると
「 グッ 」と熱いものが込み上げてきます。
レザージャケットの専門メーカーカドヤ
我がカドヤ本社工場にも
戦前生まれ、戦中育ちのベテラン職人が
今だ現役で在籍し
日々、革ジャンと格闘しております。
様々な経験をされてこられた先輩方の
知恵や発想力、根気と我慢強さ、創意工夫の精神
[日本の職人魂] が
昭和という時代の大荒波を幾度も乗り越え
今年で創業80周年を迎えるカドヤを支え
本社工場を活気付かせ、支えてくれています。
昭和という時代を
革ジャン職人として一本気に生きてきた先輩方の意志をしっかりと受け継ぎ
我々がまた心を引き締めて
新たな時代に向けて
更なる「 ものづくり の基礎 」を築いていかねばなりません。
20年後
私は60歳半ばになりますが
願わくは
カドヤ現役職人として
平成生まれの若き職人達に混じって
カドヤ創業100周年を迎えることができたら素晴らしいな、と思っています。
レザージャケットの専門メーカーカドヤ
【原田】